第910話 会津喜多方リベンジ編☆三津谷の登り窯!『町を作った煉瓦たち』花嫁学校ほか [廃村さーくる2(煉瓦工場探索)]
『喜多方の煉瓦ってそもそもどんな感じでしたっけ?ですぅー^^』
・・・なんだよ夕実っち、もう忘れちったのかいw
『オレもお前らほど詳しく知んないんだが^^』
・・・お兄ちゃんあんたもか!^^;
っつーことでおさらいしておきやしょうず。
『喜多方煉瓦とは?』
特徴としては何と言っても『釉薬』
釉を塗り(むしろ漬ける)焼き上げることで煉瓦の表面をより高質化(ガラス化)させ、
風雪害にも負けない撥水性を兼ね備えた煉瓦ちゃんなのだ(*´д`*)
雪も多く降る会津地方ならではの特徴でありやすね^^
その煉瓦ちゃんは会津地域のインフラに大きく貢献したんだよ?
現存3000とも4000棟とも言われる日本屈指の蔵の町でもある喜多方にはその煉瓦が使われた蔵もたくさんあるし、
また近郊の鉱山にも寄与し、磐越西線の煉瓦隧道にも使われたわけ。
つまりは『町を作った煉瓦』なんす。
かつてはその煉瓦を焼く工場や窯場もいくつかあったとですが・・・
関東大震災による煉瓦への悪評風評、コンクリートの台頭、機械式電気式などの大量煉瓦生産時代に飲まれて次々と閉窯していきやした。
そして今日訪れるのがーーー
昭和45年まで踏ん張った『樋口窯業さんの窯場』
つまりは『三津谷の登り窯』っす^^
明治23年創業のその窯場は一端火が途絶えたのですが・・・
そこには小さいけれど僅かな火が残ってました^^
その火を大事に大切に。
そこに集った有志の皆さんの頑張り物語、みんなで見に行きやしょう!
第910話、会津喜多方リベンジ編、スタートっす^^
『ようこそちょいのりさん^^では早速、窯場の方へ☆』
煉瓦館を訪れるとお姉さまが私たちに気づき、隣の登り窯へと案内してくれました。
ちょいのりさんて?
私の『日本全国煉瓦探訪』のホームページのハンドルネームっすよ!(物語上、そういうことにしておいてくださいw)
お前、見学予約したときに本名と一緒にハンドルネームも告げたんだよなw
だって昔、会津喜多方の煉瓦記事を書いた際に、ここの関係者さんらしき方からコメント頂いたから『もしかしたら・・・』ってな感じで告げたんすもん。
そんなこんなで煉瓦窯に到着する私たち。
そこには作業着を着たお兄さんがいらっしゃったのです。
みんなで会釈しながらも近づくとーーー
『どうもちょいのりさん初めまして^^ あなたの記事見てますよ☆』
えええっ(;゚Д゚)(;゚Д゚)!!??
ぐおおおおおおおおお!超絶感動です!ありがとうございます!こんな煉瓦をちょこっと齧った程度の記事見ていただいて寧ろすみませんごめんなさい^^;
ここでご挨拶と共にいくつかお話させていただきました。
ブログを見てますよとか、色んなとこに行ってるんですねとか。
こんな一介の下手の横好き煉瓦好きの記事でも見てくれて頂けたなんて・・・
何より分かりやすいって言っていただけたのが一番嬉しかったかも。
私的には『煉瓦の魅力をただの絵面や字面で堅苦しく説明するよりも、漫画的・会話的に読みやすく。かつ、万人にも伝えられたらいいなあ~』と思いながら綴っていたからこそ余計に嬉しかったんだよ(*´д`*)
ブログ書いてて良かった・・・と思っちゃった(感涙)
さてこのお兄さんは三津谷煉瓦窯再生プロジェクトの現場責任者さんであり事業統括責任者さんのKさんっす^^
『では早速、この三津谷の煉瓦窯を皆さんに見ていただきましょうね^^』
Kさんに案内され、私たちは窯場の見学へとレッツゴーっす☆
わきゃー!煉瓦の窯がたくさんあるですう☆
琴音?ちょっといいか??
何さ?
オレ、超絶感動してるんだけどw
実は私もっすよおお。だって日本で唯一煉瓦を焼ける現役の登り窯なんて初めて見るんだもん( ノД`)生きててよかった・・・
(現役の煉瓦焼成窯として古来の登り窯式は日本どころか世界でも数少ない。ぶっちゃけたぶんここだけ)
『ここは大正時代に10連の登り窯になったんですよ^^』とKさん。
するとここで嬉しい申し出が!
『中に入ってみてくださいよ^^』
い、いいんですか!?
・・・と言うことでお邪魔させていただくことになったっす☆
もう言葉にならねー
中はイギリス積みですう(*´д`*)
お!東濃さんの耐火煉瓦☆
お前こんな時でも目ざといな^^;
焚口(点火口)かな。
こっちは狭間口(火道)だっけ?廃熱を上段の房に推進させる小口。
わきゃ?ここは入り口埋められてるですよ?
窯詰したら一旦出入り口塞ぐって常滑や下野ホフマン輪窯で習ったっしょ?夕実っち^^;
そもそも塞がないと焼けないじゃんかw
そでしたねエヘヘ^^;
---さて私たちはKさんに案内され登り窯をぐるりと一周。
ここが焚口の表側ですう(バーナーがありますね)
登り窯を半周廻ったとこで、私たちは入り口付近の休憩所に戻ることになったのですがーーー
Kさんが『これを見てください^^』と、登り窯の脇に積み上げられた煉瓦を幾つか見せてくれたのでした。
『これが見たかったのでは?^^』とKさん。
こ、これってもしかして!
樋口窯業の煉瓦ちゃんの刻印ですかあ!?
『そうですよ^^ 前回、皆さんは三津谷の登り窯。つまりは樋口窯業の刻印を探しておられたでしょ?
実はちゃんとこうして刻印打たれてるものもあるんですよ^^』
私は刻印とか無いものと思ってましたですう^^;
やっぱりあったのかあ!超絶感動っすマジで。
ここではKさんに『煉瓦窯も当然火入れの繰り返しや経年劣化で傷みますし、修復の際に当時の刻印付き煉瓦も出てくるわけなんですよ^^』と。
(一個欲しい・・・)
何か欲望の声が微かに聞こえてくるような・・・^^;
積み上げられた煉瓦さんの中にはこんなものも。
耐火煉瓦も含めて貴重なお宝の山っすう(*´д`*)
---さて、
休憩所までたどり着いた私たちはお姉さまも含めてここで色々とお話をすることに^^
『色々なところに行かれてますね☆』
『門司港はいかがでしたか?』
『あそこの煉瓦はねえ・・・』
『私たちもたくさん巡りましたよ^^』
『あそこはどう。あれはどうetc』
更に古写真を見せて頂きつつ磐越西線と、ここ樋口窯業と、栃木県は下野煉瓦(シモレン)との関わりなども教えていただきました。
これは驚いた・・・。だって近県とは言え栃木のシモレンと福島県会津喜多方じゃめちゃくちゃ遠いよな?
磐越西線の隧道(トンネル)工事の写真に下野煉瓦の法被を着た人たちがたくさん映ってるですう^^
シモレンも樋口さんも創業はほぼ同じ(樋口窯業・明治23年。下野煉化製造会社は明治21年)
何らかの技術供与があったんじゃないっすかね(*´д`*)
(※その写真は今回あえて撮影してません)
そしてKさんの奥様?(お姉さん)もめっちゃ煉瓦に詳しいのだ。
お話聞いてても伺っても、その博学さに恐縮しっぱなしw
と言うかついて行けるのだろうか私たちって感じでしたぞい^^;
(そりゃそうだ。この古来の登り窯を再生しようとKさん共々日本全国駆け巡って学び、尽力したプロジェクトチームの一員さんなんだからね☆)
『いやあ~煉瓦の話が分かる人とお喋り出来てボクは嬉しいよ^^』とわたし達に振り返るKさん。
と、とんでもない!とってもとっても恐縮です^^;
---でもチョコっとそう言っていただけて滅茶苦茶嬉しかったのはここだけのお話と言うことでw
(ここだけのお話、喜多方観光のパンフにも載ってるし有名物件だし~、なんとなーく見学される観光客の方も、まあ居ますしねw)
ふとここで夕実っちが背にしていた登り窯のある部分を指さして話題をふったのだ。
わきゃ!? あそこに手書きの刻印が飾ってあるです^^
ほんとだ。2009年・2010年・2016年って意味かな?
Kさんアレは何???
『あれですか?アレはーーー火入れした時に記念した煉瓦ですよ^^
それぞれ随分と違うと思いませんか?』
わきゃー、確かに違うです。
『喜多方煉瓦の特徴としては施釉、そしてその焼き上がりの独特の風合いなんですが、窯を復活させてからは試行錯誤の連続でした^^
ではこれを見てください』
そうおっしゃりKさんは幾つかの煉瓦を見せてくれる。
色々な表面をしていますね。
『はい。これは窯変煉瓦(煉瓦の窯変)っていいまして、釉薬に含まれる成分が様々に反応して色々な風合いを醸し出すのです^^
(銀化や灰かぶりなど)
気泡が出来たり、火入れによる煉瓦の縮み・割れにも苦労させられました^^;』
煉瓦の世界でありながら陶磁器の世界だなあ~^^
さてこの後はーーー、煉瓦館を見学させていただくことになったっすが、その前に☆
うおお!すごーい!
煙突を屋内から見れて感動っす(*´д`*)
『いま私たちの立っている煙突前の地面の中には煙道が幾つも通って煙突と繋がってるんですよ^^』とkさん。
ここで焼かれた復活煉瓦さんはどういったところに使われてるのですか?
『そうですね^^ 主に喜多方市の施設に使っていただいてますよ。もしくは既存煉瓦建築物の修復用など。
需要があればもっと生産したいですよw
なんせ登り窯は、火入れでも確かに傷みますが、火を入れないと(使われないと)もっと傷んじゃうんです^^』
家と同じなんですね。人がいなくなった家は朽ちるのも早い・・・(廃墟マニア談)
『煉瓦のご入用がありましたら是非どうぞ^^』とkさん。
あははは
宝くじ当たったらぜひお願いします(*´д`*)
さてやって来たのはコチラも前回入館叶わなかった喜多方市煉瓦館の内部ですう^^
中には色々な展示物があったのですが、琴音っちは真っ先に『ある写真』に飛びついたのです。
うおおおおおおおおおおおおおおおおお!
こ、これは・・・煉瓦の学校!?
これは驚いた・・・今は現存しないのかな?
もし現存してたら絶対重文(重要文化財)指定でしょ!
『私もそう思いますよ^^ この学校が残っていたならば、きっと重要文化財だったでしょうし、多くの観光客も来てくれたのでは?と思ってます^^』
(※現・岩月尋常小学校跡。2代目かな?施設として利用されています。
その上に掲載した初代岩月尋常小学校煉瓦校舎の写真は、実際には白黒写真ですが、今回謎の技術を使ってカラー化させていただきましたのでご了承を^^)
さて煉瓦館へとやってきたので簡単にですが三津谷の登り窯、つまりは樋口窯業さんのあらましをKさんから(※ここはボクが付け加えた部分です。
『元々は樋口窯業も瓦を焼いていましたが、岩越線・磐越東線西線での煉瓦需要が高まり煉瓦も焼くことになったのが煉瓦との関わりの始まりです^^
これを祖である樋口と田中は喜多方の建築物にも使えるのでは?と試みたのが明治35年創立の初代岩月小学校。
先ほどの煉瓦の校舎なんです^^
見てください立派でしょ?
そのあまりの綺麗な佇まいに町の人たちはこう言ったそうです。『花嫁学校』と^^
残ってたら・・・現存していたら・・・
さてこの学校の成果もあって喜多方には土蔵蔵だけではなく数多くの煉瓦の蔵も広まったそうなのです^^』
煉瓦が街に広まったのも学校のおかげもあるんですね。すごーい^^
さてさてここで更にサプライズなことが。
ディンプル付きの木版を見させていただいた後に(要するに判子みたいな型。成型時にこれで模様を煉瓦に着ける)
Kさんは一つの煉瓦をとって私たちに見せてくれたのです。
『ちょいのりさん(琴音さん)これって何だか分かります?^^』と。
え!? うーん・・・この白っぽい煉瓦がどう・・・
ん!?琴音、これってもしかして・・・
『実はこれ、樋口窯業の耐火煉瓦なんですよ^^』
マジっすか!私はてっきり樋口さんって施釉煉瓦や赤煉瓦だけだと思ってましたっす!
『私も最初に見たときは驚きましたよ^^ 耐火煉瓦も作っていたなんてね。
ですがいつ頃造られたのか、どのくらい生産されたのかは分からないのが現状です^^;』
(※これは・・・煉瓦好きにしか伝わらない話なんだけれど、煉瓦を知ってる人からするとかなりのサプライズなんですぜ)
さあ~ドキドキの洗礼を受けた後は館内を周ることになりました。
わきゃ?郵便局のマークがついた鬼瓦さんですう^^
こっちは何か色付けしてあるのかな?
『昔は煉瓦と瓦を同時に焼いていたんですよ^^ 今も近隣の学校の作品なんかを一緒に焼いたりもしますが☆』
へえ~☆
館内を一通り見て回ったと、Kさんが『まだまだ見ていただきたいところがあるんですよ^^』と、一端外へと出ることになりました。
登り窯の裏手に広がる畑を指さして『ここは煉瓦用の土をとるとこなんです^^(土取場) もっとも今は新潟の瓦屋さんから土を頂いているのですけどね^^』
てっきり農作物の田畑だと思ってましたですう^^;
周りは水田ばかりだしね^^;
次に向かったのはーーー
登り窯の裏手にある錆びついた機械たち。
これはやはり、れんがの成型の為の機械たちってことなんでしょうか?
『そうです^^ ここにあるのはかつて使用していた機械たちなんですよ。本当は屋根のある母屋でしたが』
さてさてさて『まだまだありますよ!^^』と、Kさん。
一同その後を追っていくとーーー
えっと・・・ここはもう樋口窯業さんの自宅の敷地内じゃ・・・
前回来たときはピンポン押してお話伺おうかと思ってたけどやめちゃったんでしたよね。
登り窯施設とは違ってここからは完全にプライベートだしな^^
するとひょいっと樋口さん宅からお母さんが登場。
『ちょっと見せて頂きますよ^^』とKさんがお声がけして、私たちは何と樋口家の中を堂々と歩くことになっちゃったw
そしてそこに見えたものはーーー
うおおおおおおおお! 超絶立派な煉瓦蔵だああ(*´д`*)(*´д`*)
『ネットでは皆さん色々なとこから何とか頑張って写真撮られているようですがw 是非とも間近に見ていってください^^』
来てよかったぁ・・・
妹様についてきて良かった(万感)
でも樋口さん家が煉瓦蔵でよかった!
確かに喜多方市の大元の煉瓦工場さんが土蔵蔵だったらビックリですね^^;
刻印は・・・無いのかな?
お前はホントにどこでも探すんだな^^;
裏手側は風化が進んだ部位も。
亀裂などもありました。
Kさん曰く『東日本大震災とそれに続く群発地震の影響』とのこと。
そして窯場も被害を受けたこと。
そこに集った町の有志たちの手で修復作業が行われたことも。
だからこそ今があるんですね。
三津谷の登り窯で焼いた復活煉瓦ちゃん以外の煉瓦ちゃんでの修復じゃしっくりこないっす。
だから煉瓦蔵もきっと復活を待ってたんじゃないかなあ。
やっぱり地元産の煉瓦だよな^^
町を作った煉瓦の伝統技術の復活・継承、陰ながら応援したいよな^^
さてさてさて・・・×5
最後に寄ったのは煉瓦蔵の裏手、登り窯の裏手に挟まれた小さな敷地。
そこには昔の煉瓦が草木の中に野積みされていたのです。
『私もですね、この中から煉瓦の刻印が見つかるのでは?と思い、よく拾い上げてたりするんですよ(*´д`*)』
とニッコリするKさん。
うは!私もそれやりてー(*´д`*)
煉瓦職人さんでもやっぱりそういうとこは変わらないんですねw
さあこれで煉瓦館も三津谷の登り窯(プラスα)の見学も無事に終えることに。
するとKさんは、
『この後予定ありますか?無ければ私の車で市内の煉瓦を幾つかご紹介したいのですがーーー』
ほ、ほんとですか!?
ーーーと言うことで、
なんと次回は!
Kさんと行く喜多方市内、煉瓦探訪の物語っす(*´д`*)
ここまで読んでくださりありがとうございました^^
また喜多方煉瓦會のKさん奥様樋口家のお母さま、ご協力ありがとうございます☆
少し日が空いたせいか聞き取った説明もうる覚えの部分が多々あります。
いえ・・・かなりあります^^;
またKさんのセリフではない部位もあります。脚色もところどころ。
物語の流れとしてご理解いただけたらばと思います。
間違いも当然あるかと思いますのでご指摘があれば修正等したい次第です。
もし少しでも喜多方煉瓦の歴史や魅力が伝えられたのなら幸いですね^^
喜多方 やっぱスゲ〜っすね
噂には聞いてたけど
2年前に行った時 探しきれなかったんですよね
残念だなぁ
by (。・_・。)2k (2017-07-15 03:26)
機会が有れば行ってみたいですね。土日祝日が休館はハードルが高いです。
by 歩鉄の達人 (2017-07-15 05:59)
釉薬を使った煉瓦があるなんて知りませんでした。
煉瓦学校があった事もビックリ、煉瓦は奥が深いなぁ。
by johncomeback (2017-07-15 06:06)
おはようございます。
煉瓦も奥深いですね・・・
by YUTAじい (2017-07-15 06:31)
街の歴史にレンガありⅰなのですね~
by katakiyo (2017-07-15 08:45)
芸能人並みの待遇ですね。
私も驚きです、釉薬を使った煉瓦。
by こんちゃん (2017-07-15 09:32)
喜多方の皆様、何て素敵な方達ばかりなんでしょう(≧∇≦)
釉薬を塗った樋口窯業のレンガとてもお洒落で
綺麗ですねぇ♪( ´▽`)
レンガ学校、残ってて欲しかった´д` ;
by ニッキー (2017-07-15 09:54)
日本で唯一煉瓦を焼ける登り窯とは凄いですね
かなりの大きさですね
どれくらいの煉瓦が焼けるのかな
by さる1号 (2017-07-15 09:59)
煉瓦の建物貴重です
田舎へ行けば行くほど見かけますね
by きよたん (2017-07-15 10:10)
ブログ見てますよ~って言われたことないです。嬉しいですね!
by みぃにゃん (2017-07-15 12:00)
喜多方にキャバクラ特区があった気がするw
by てんぽいんと (2017-07-15 12:17)
すごい記事です(*^^*)内容の濃さに驚きです。
磐越西線に栃木が関係があるなんて嬉しいですね〜。会津鉄道つながりなのなかぁ。
次回の記事も楽しみにしています(^^)
by ワンモア (2017-07-15 15:16)
郵便マーク入りの鬼瓦には驚きです!
また煉瓦蔵は最高で綺麗ですね。
by Hide (2017-07-15 17:00)
何気にすごいとこだったんですね。
ただただ機械がポンッと置いてあるのに
なんかもったいなくない?となってしまいます。
by みずき (2017-07-16 00:02)
記事中ビシバシと煉瓦愛に溢れてますね~^^!
そしてカラー化の謎の技術すごいです☆
by ジル (2017-07-16 00:24)
レンガを焼ける煉瓦作りの登り窯ってすごいですね。
by 足立sunny (2017-07-19 18:46)
ブログや瓦を通じて良い出会いがありますね。
喜多方は派手さは無いですが良い街ですよね(∩.∩)
by 美美 (2017-07-20 19:27)
ブログを通じて、こんな交流が起こるなんて、
スゴイですねー!この記事を読んで、まずは
それを感じずにはいられませんでした。
そこに感動です^^;!
by sakamono (2017-07-21 00:09)
アッハッハッハ、喜多方、煉瓦の宝庫ですな(^o^)
関東大震災において、煉瓦の建物が並んだ銀座煉瓦街は、建物の47.8%が煉瓦造りだった。
銀座地区における地震(震度6~7程度と推測される)による直接的な被害は、
被害なし 8棟 21%
亀裂 20棟 51%
一部崩壊 8棟 21%
全壊 0棟 0%
不明 3棟 7%
(震災予防調査会 震災予防調査会報告第百号丙上)
となっていて、建物倒壊による圧死者は無く、煉瓦造の建物は最低限の耐震性を備えていたといえる。
銀座煉瓦街は、地震後に発生した火災により壊滅したのだ。
しかしながら『煉瓦は地震に弱い』というイメージは強く、震災後の耐火建築物は施工の簡単な鉄筋コンクリート造へと変わっていく。
建設資材としてのコンクリートの価格が安くなっていくことも大きな要因だっただろう。
新永間市外線高架橋がまだ現役であることに鑑み、構造物としての耐久性はコンクリートより煉瓦の方が数段上ではないだろうか。
by 駅員3 (2017-07-21 07:43)
登り窯の中に入れるなんて普通ではできない体験されたんですね。
by gen (2017-07-21 20:01)
これは有意義な旅となりましたね。
知らなかったことを知るってとっても楽しい体験。
そして、ニッチ故に共通の話題で盛り上がることが出来る
喜びは想像できますよ!
by まめ (2017-07-31 12:44)